10年一昔というが、何事も10年サイクルなのかと、最近の日本とウラジオのビジネス交流を見て感じている。
1992年1月、ウラジオストクは極東の軍事閉鎖都市から外国人に解放された。80年代半ばのペレストロイカから市場経済へ、日本企業の注目が一気に高まったのがこの頃である。日本からの代表団訪問や経済視察は引きも切らない様子であったことを知る人は少なくない。
当時、新潟も友好の船や翼などを出しており、対岸交流は一気に加速するかに見えた。しかし、日本のバブルははじけ、国際交流もバブルのようにしぼんでまった。それから10年の歳月が経った。
私たちは、10年に渡りロシア極東の経済情報誌を日本で発行している。日本側のロシア極東に対する反応が、敏感に伝わってくる仕事に携わっている。
数年前まではロシアのことを言っても気にも留めてもらえなったのが、最近は日本側からロシア極東についての問合せが多くなっている。
いくつか最近のビジネス交流の事例を紹介すると、今年の初め、ウラジオのIT企業が日本へ営業活動に乗り込んだ。彼らは今、日本の大手企業の依頼でソフト開発に取組んでいる。また、この9月、日本の車メーカーが中堅商社と共同でウラジオに修理センターと部品販売に乗り出した。ゆくゆくはサミットモータース(トヨタの販売会社)のように新車を販売することを目論んでいる。
ウラジオ側では、和食店が日本人の板前を雇用して店のイメージアップに力を入れている。ウラジオの和食店「みたみ」では秋田から板前を呼んだ。最近の話では、ハバの和食店から新潟の寿司組合にロシア人の板前を研修に派遣したいという申し入れもある。
10年前は、日本側の一方的なロシア極東支援が目立ったが、今の交流はロシア側もそれなりの対価を払い日本との交流に取組んでいる。
新潟からウラジオまで飛行時間1時間20分。新潟の対岸にそれなりの市場が開けようとしている。この状況を一番知らないのが新潟の人かもしれない。
2003/09/19 JSN 田代雅章
※この記事は、新潟日報紙の「環日本海情報ライン」2003年09月掲載の記事を転載したものです。