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会社概要

隣国ロシアをもっと知ろう

 弊社は1993年2月、ロシア極東の週刊経済情報誌「ダーリニ・ボストーク通信(現ボストーク通信)」を創刊しました。今年2月で情報誌は発行から20年目に入ります。
 開SNは新潟市で設立、極東のウラジオストクに現地法人(事務所)を開設し、今日までロシアの経済ニュースを日本企業や官公庁、地方自治体などに提供しています。

 1989年5月、私は新潟港から当時軍港として閉鎖していたウラジオストクへ向かう貨客船ルーシ号に乗り込みました。80年代半ば、ゴルバチョフ書記長が提唱するペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(情報公開)に向けてソ連邦が動き始めていました。その頃、新潟でも「環日本海時代」の到来が官民上げて叫ばれており、対岸ロシア極東との交流に注目が集まっていました。
 しかし、ウラジオに向ったはずのルーシ号船内では「ウラジオには行けない、ナホトカ港からバスでウラジオに入る。いや、ウラジオには入れない・・・」など、情報が交錯していました。後日わかったことですが、モスクワでは軍部と改革派との間で論争があり、日本人200人が乗ったルーシ号をウラジオに入れるかもめたようです。しかし、時代は改革へ突き進んでおりルーシ号は無事ウラジオストク港に着岸しました。

  ウラジオストクは明治から大正時代にかけ日本人5、6千人が住んでいた町です。そのことをルーシ号の中で知りました。この船には、戦前、幼少の頃ウラジオに住んでいた70代から80代のご老人が何十人と乗っていました。彼らの両親らはウラジオに移住し事業を起こしたが、戦争で二度とウラジオの土を踏むことが出来ませんでした。
 このように私の初のウラジオ訪問は、日ロの歴史に翻弄された開拓者の末裔との出会いから始まり、新潟の対岸であり日本と深い関係を持つこの町に惹かれていきました。

 1992年1月、ウラジオストクは国内および外国人に開放されました。私は開放までに何度かウラジオを訪問してきて日ロ双方の情報のギャップを感じていました。その情報ギャップを埋めたいとロシア極東の情報誌の発行を思い立ち今日まで続けています。
 現在、インターネット上には様々なロシア情報が掲載されています。日ロ両国の若者らがイデオロギーを超えた交流も始めています。「近くて遠い国」といわれたロシアが徐々に身近になっています。しかし、まだ日本人のロシア感はステレオタイプ的な見方が多いように見受けられます。
 弊社は日本のマスコミが報道しないロシア、また、ロシアで起きている事実をこれからも日本に伝えていきます。

2012年 1月20日 代表取締役 田代 雅章


【新生ロシアのメーデー取材中。右隣の青年は、私のアシスタント として 働いてくれたイーゴリ君。90年代始め治安が悪かったため、 私は髭をはやしていた。】

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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